振り返らない強さ ef – a fairy tale of the two./minori

ef – a fairy tale of the two./minori


さて、ようやくefの感想なんかを書いてみようと思います。といっても、わたし自身このefがきっかけとなり、minoriの作品をことごとくプレイしてしまったため、efに限らず、同ブランドの他タイトルの話なんかも少し出てきてしまうかもしれません。また、当然のようにネタバレを含んでおりますので、ご了承ください。


ef – a fairy tale of the two.は、前編と後編、the first taleとthe latter taleという形で販売されました。the first taleの発売当時、非常に楽しみながらプレイしていたのですが、前編がまさしく前編、本当の物語はここから始まると言うような、あからさまな引っ張り具合にがっかりしてしまい、そこで後編に対する期待はおろか、前編について描かれていたものに関してだいぶ放棄してしまいました。前編で伝えたかったことというのは、後編とは限りなく独立していながらも、後編で描かれるものを知っていたほうが、より理解が深まるようになっています。多くの物語についてそれは当たり前のことであって、前編・後編と分けたのはやはり失敗だったのではないか、と考えてしまいます。ただ、そんなことは瑣末と思えるほどの衝撃を、the latter taleはわたしに与えてくれたのです。(おとぎ話はふたつある、などそういう考え方をしてみると分割も悪くはないのですが、前編が単体で評価された際にどうしても不憫な結果が付きまとうのは、当たり前とは言え残念です)


さて、こんなにもわたしがefに惹かれている理由はなんなのでしょうか。
はっきり言って、「別れるために出会う」そこに尽きると思っています。efはおとぎ話です。それはコピーからもわかることですし、そもそも優子が存在していること自体がその証明です。だからこそ、わたしはこのおとぎ話はわかりやすいハッピーエンドで終わると思っていた。辛い過去を背負っていた優子が今度こそ本当の幸せをつかむ、そんな物語を想像していました。これは、雨宮優子のための物語だと。しかし、二人は出会い、そして別れます。そこで火村が誓ったことは、「振り返らないこと。」優子を想って生きてきた火村があの瞬間、振り返らずに未来へと進む。別れに至るまでに、二人が出会った若者たちが見せてくれたような、未来へ続く可能性というものを信じて。わたしはそこでようやく、この物語は、今を生きる火村のための物語だったのだと気付き、そしてその瞬間、そこに続くすべての物語が圧倒的な力を持ちました。1章、2章、3章、4章(ミズキ)これらは、二人に未来を信じさせるための可能性として、まさしくなくてはならないものであった。火村の強さと、その過程を考えたとき、ef – a fairy tale of the two.はどれほど壮大な物語だったのでしょうか。


「別れるために出会う」、一見矛盾を孕んだこの言葉が、このおとぎ話においては悲しさよりも、強い光を感じさせます。それは3章までに展開される群像劇や、優子の想いを継いで生きるミズキがわたしたちプレイヤーにそれを提示してくれたからです。「はるのあしおと」では、断絶とその先にある希望を文章によって表現しました。今回は、その先にある未来というのをわたしたちに強く「想像させること」に成功したと思っています。火村が歩む未来が、必ずしも明るいなんて保証はないわけで、それにも関わらず、わたしたちプレイヤーに「輝くものだろう」「明るくあって欲しい」と信じさせるのはこの物語の勝利です。


その別れや、未来に続く希望と言うのを上手く表現しているのが、アニメーションムービーです。酒井伸和は以前に新海誠との対談において、

―ムービーは時間軸を含め、ユーザーをゲーム(操作)から切り離せる、プレイヤーではなく、観客にできる時間なんです。シナリオはテキストを読むスピードにも個人差があり、時間を制御できないけれど、ムービーにはそれができる。ですから、物語を展開させる部分に挿入しています。


                               Wind – a breath of heart – ビジュアルファンブック2より

という発言をしています。
なるほど、ムービーに関しては、the first taleでは事前にOPの体裁で配信されましたが、その実、物語の最後に流れ、後編:the latter taleへと繋がる挿入ムービーでした。そして、the latter taleにおいて、クライマックスに流れるムービーは、現在とこれから歩む未来へと繋ぐ挿入ムービーの役割を果たしています。上の引用にあるように、ムービーというのは私たちを否応なく観客にします。ムービー=動画に頼るならば、アニメという確立されたジャンルがあるではないか、という意見もあるかもしれませんが、物語ひとつを綴る際に、表現方法なんてあくまで手段でしかないのではないでしょうか。その物語が最も映えるベストな状態に持っていく、それが創り手の使命でもあるはずです。その使命に関して、酒井伸和という男は最も素直な人間であるように思えます。少なくとも、エロゲー業界においては。


そのムービーに関しても、たいがい素晴らしいのがminoriです。「はるのあしおと」では、やがて来る幸せを表現し、傘を開くシーン「解放」に注目が集まりました。あのムービーはプレイ後なお、考えさせられることが多い。新海の作品はとにかく深くて、自分の世界観で与えられた作品を染め上げます。だからこそ酒井も任せることができるという発言もありました。さて、話はefに戻ります。後編最後のムービー、ever foreverが見る者に与える衝撃と言うのは筆舌に尽くすほどでしょう。ディレクションに関して、シャフトにどのような指示があったのかはわかりませんが、未来へと続く挿入を、おそらく完璧な形で表現してしまった。新海とはまた違った、非常に素直な想いが伝わってきました。あのムービーがあるからこそ、わたしたちは未来を信じることができる。


BITTERSWEET FOOLS」は、過去を振り返らなかった男たちが、自分の守るべき場所や人、つまり振り返る場所を見つける群像劇でした。「Wind」は、街とそれを取り巻く風、あるいは人を通じて、想いの強さを。「はるのあしおと」では、甘えとそれを断ち切るための別れ、そして幸せな再会を描きました。minoriというブランドはそもそも過去作での反省点を活かしたような作品作りを主としていましたが、ef – a fairy tale of the two.はまさに今までのminoriが積み上げてきたもの、それを最大限に発揮できた結果だったのではと思います。また、minoriは作品において、街に主体性を強く持たそうとしている気がしてなりません。どの作品においても、街が限りなく重要な要素になっています。そして、街との干渉を通じて成長する人間が必ず登場している。minoriが持つ独自の世界観というのはそこに起因している部分もあるのはないでしょうか。


それにしても、ef – a fairy tale of the two.の感想というよりは、ほとんどminori全般についての発言になってしまいました。ただ、わたしにとって、efはエロゲーにおける答えの一つです。それは、エンターテイメント的な、いわゆる視覚から得られる情報にしてもそうですし、文章から広がる世界に関しても同様です。文章だけではない、音楽だけではない、イラストだけではない、動画だけではない、efはエロゲーというコンテンツでしか表現できないものだった、と思っています。


minori's 4th challenge about "will"
このwillをわたしは決意と解釈しているのですが、この挑戦はまさしく完璧な形で成功しました。あの圧倒的な決意は、憧れさえ抱かせます。minoriは4作目にしてほとんど「完璧」を作ってしまった。続く5作目、どんな物語を提示しても本作を超えることは非常に難しいでしょう。そこで期待することは、他と比べることのできないようなベクトルの作品です。多くの作品を評価するに当たって、まったく世界観や設定の異なる作品を比較してしまうのは、構造や批評をする上では有益かもしれませんが、純粋に物語を楽しむ上では、余分な要素になることが多い。そういった比較させること自体を放棄させるような、まったく新たな視点で、わたしたちに新たな物語を突きつけてくれることを期待します。